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頽廃したサークルに機能の復権を 文化・スポーツ活動の発展のために | |||
1968年大学工学部新聞に投稿 小波 淳(ペンネーム) | |||
昨年の学生大会が流会となり、新執行部の基本方針、活動方針が決定しないまま現在に至っている折、今年度の学友会活動はどうなるのだろうという不安を持たざるを得ない。しかし執行部は動いている。一体何に基づいて動いているのだろうか。新入生歓迎行事にしても、文化・スポーツクラブを無視した歓迎合同実行委員会の設立、そしてその内容といえば昨年度とほとんど同じ。昨年度も感じたことではあるが、執行部は新入生歓迎の意味(私達三年・四年生にとっての、新入生にとっての)がわかっていないのではあるまいか。映画(ミュージカル・恋愛物)、ダンスパーティ、ハイキング・・・・・と、お遊び行事とでもとらえているのだろうか。東京都立大教授の講演会ひとつだけが何かしら異種に思えた。執行部の人達は講演の内容が私達にとって適切であり、良かったと総括しているが、私達にその内容がどのようにかみ合い、そしてどのように良かったのか、欠点は、又これからの私達の行為にどう結びつくのかという展望まで語らなければ総括といえないだろう。手放しで喜んでいる時は、その背後に必ず陥し穴が潜んでいることを知らなければならない。私が思うに、新入生を歓迎するということは、少なくとも現在当工学部学生が抱えている問題から、大きくは私達を取り巻く現状況において私達が一個の人間として問題にしなければならないことを新入生に提示し、話し合い、これからの学友会活動に対する意識を高めることではないだろうか。執行部が口癖にしている民主主義、学内の統一と団体、etcはこれからの行事の中のどこに顕われているのだろう。ダンパの会場にだろうか。合ハイにだろうか。さらには、サークル活動の活発化を口にしながら、サークルを無視した実行委員会設立をやっている事実をどうとらえたらよいのだろうか。ひじょうに疑問を持たざるを得ない。
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このような折、最近わたされた学友会誌に「炎」編集委員の名で“一層の文化、スポーツ活動の発展のために”というサークル論が載っているのに気付いた。この文に対して少々の不満や疑問な点を感じざるを得なかったので、私のサークルに対する考えをおりまぜながら述べてみたいと思う。 「炎」の人達は流会に終った学生大会において提出された対案書の中のサークル論に対して書いている。まず、クラブ・サークル連絡協議会準備会が結成された時にサークル論・運動論がないといってその不明確さを指摘した人達を誤っていると書いている点から述べなければならない。 何ら方向性、運動論の欠如した運動において何かを為しえた例があるだろうか。何かとは何十項目かの要求を勝ちとるとこではない。こういった要求はあくまでサークル活動をささえるものではあっても活動内容ではないはずである。運動論の不明確さという本質的な点を指摘したのに感情的な理由(実に本質的でない)でかたずけることは絶対に間違っている。もっと謙虚にならなければならないのではないだろうか。そして又勝ちとった要求から現在のサークルにおいてどのような活動がなされているかといえば、以前と変わらない、いや以前よりも低迷した活動が存在しているだけである。勝ちとったという成果を「炎」の人達や執行部は後生大事にしているが、現在のクラ連協が何をしているといえるのか。もちろんクラ連協の存在は有った方がいいし、有るべきものと思われるが、だからといって要求を勝ちとるだけの形骸化した有名無実の協議会であっていいはずのものではない。 「我々のサークルの意味は趣味でもなければ娯楽でもない。そして単なる人間関係、友人を求める機会を得るためでなく、又社会に出たら役立つ様な先輩、後輩の関係を、付き合い方を、協調の精神(?)を学ぶものではない」という文にどんな侮辱があるといえるのか。まさに当工学部サークル活動の大半に当てはまる問題点ではないのか。私達の周囲の現実に目を向けずに何ら危険のない温床でぬくぬくとしている活動は絶対サークル活動とは認め難い。真にサークル活動で何かを創造し、止揚していくためにはこのようなべったりした人間関係を取り去り、裸で向き合った人間同士のはげしいぶつかりが必要である。 |
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してからどのような民主云々が生まれたというのだろうか。民主的文化、民族的学問研究、民主的スポーツetc・・・・・これらは一体どのようなものなのだろうか。具体的な要求どころか全く抽象的な言葉ではないのか。第一、現実へ対処しようとする者にとってその前途は民主的云々の羅列で解決できる程明るいものではけってはないはずである。もっと現実を見つめなければ「炎」の人達のいう現実(社会)を変革することはできないだろうし、そして又現実の穢さ暗さにもっと絶望し、その中から這い上ろうとするエネルギーころが現実変革に群がるものだと思う。ベトナム云々いいながらのダンパや合ハイのようなレクリェーション的集りからはけっしてこのエネルギーは生まれないことは確かである。
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私がこのように反論してきた点を考えてみて、「炎」の人達が反動勢力、分裂主義者呼ばわりする対案書のサークル論に一体どのような反動が分裂工作があるといえるのだろうか。むしろ「炎」の人達が用いる感情的なセクトやドグマが明らかになるだけではないだろうか。私がここでこのことを指摘するよりもっと的確に指摘している文を引用してみよう。 石堂淑郎「映画における幻想と死」(デザイン批評・1968・2・NO・5)より ・ ・・・・中 略・・・・・ つまり、ボーニーとクライド(アーサー・ペン監督“俺たちに明日はない”の主人公達)は、絶望をその両肩におぶったまま譲らず遂に殺され、創価学会・民青はその絶望を宗教的・政治的幻想という偽りの希望に肩代わりさせるのだが、少なくとも前者は精神的な疎外を肉体によってうけとめることによってプロテストしているのに、後者は疎外からより大いなる疎外へと移行しているだけなのである。キエルケゴール風にいえば絶望を絶望としてうけとめて死ぬのと、絶望を希望という名の絶望に肩代わりさせてニコニコするのとどちらがより絶望的であるのか、勿論、後者である。これをいま別の面から考えてみれば、学会なり民青なりの核である宗教的、政治的幻想は敵対者に対する憎悪をその唯一の栄養としていることがあげられる。つまり彼らのニコニコ顔は非同調者に対する憎悪の顔と表裏で一体であることを忘れてはならない。それは幻想という見えざる呪縛の力にとらえられている人間のつねである。 ・・・・・後 略・・・・・ 「炎」の人達はこの引用文の内容をどのようにとらえられるでしょうか。 「炎」の人達は対案書を部分的にとらえて非難しているが、さてそれはどうすればいいのかという点に関しては、民主的、自主的云々という一般的抽象的言語をふりかざすのでは仕方がないでしょう。これはあくまで非難でしかない。読む方でも戸 |
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惑うし不満を感じて当然です。それに、現在の日本ではどこにも民主的と名のつくものは存在していないと思うし、私には「炎」の人達のいうような民主云々は永久に存在しないような気がします。いやたとえ存在したとしてもそれは真の民主云々ではないと思う。第一、民主主義の原理とよくいわれている多数決の原理ほど暴力的なものはないのですから。最後まで個と個のはげしいぶつかり合いでなければならず、その中で運動を発展していくのがサークルであると思う。 現在、工学部サークル内に巣喰ってっている低迷とマンネリの根本的原因は、サークル員一人一人が個としてのサークルに対する意識を持っていないことにある。つまり、サークルは何を為しうるのか、何を為さなければならないのか、サークルが現実(社会)の中でどのように位置ずけられるのか、サークル員たる個人はいかなる行為をすべきかといった点が迫求されなければならないのである。又自分の生き方に対して何ら疑問や悩みを感じられない(自らの甘さのため)点にもその原因があるだろう。従って現状況において必要なのは、サークルの一人一人が一個の人間として自己への問いかけを始めることである。自己の存在のしかたを疑うことである。 サークルが運動体としての機能を持ちうるのは、前述の行為をなしえたサークル員一人一人が現実の中で抱えている諸問題をサークル活動の中に持込んだ時である。この時にこそ具体的サークル活動(例えば、写真部なら写真を見、撮ること)によってさまざまな問題が提起されなければならない。しかし、現在の工学部のサークルの状況ではそういった問題提起も大部分のサークル存続主義者によって打消されるかも知れない。しかし私達は、サークルはサークル存続のためのサークルではなく、又こういった存続主義者のものでもなく、一個人の意見を消し去っていい理由はどこにも存在しないのだということをそして、サークルを動かしていくのは構成員一人一人であることを考えなければならない。そしてサークルがその機能を持ちえた時、私達のまわりの様々な問題を生ましめている現実(社会)へ向って、真の行為がなされるのである。そうでなければ個人の問題は個人の中で内閉するサイクルを描くだけで終るだろう。そして現実はあいも変らず私達を呑み込みながら膨大に変化し続けるだけである。 |
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